ニューヨークから見たTOKIOの事件の感想。
こんにちは。
こちらは日曜の昼さがりで、のんびりと宿題をしています。
日本はGWが終わって月曜に向かって寝ている頃かと思います。
全ての日本人が連休明けの重い気分に苦しむがよい…!(単なる連休への嫉妬。)
さて。
よく日本のニュースサイトを見ているのですが、
今一番気になっているのがTOKIOの山口さんの事件。
当たり前ですがこの事件の報道が過熱していないニューヨークから、個人的に感じたことを今日のブログでは書きたいと思います。
率直な感想としては、「何が起きてるの?」という感覚。
ネットから得た情報では、日々この事件の経過がヤフーのトップサイトに現れ、それに付随してタレントのコメントが数時間後のトピックになっている様子。
驚いたのは、ほんの数日の間に山口さんが会見をして残留したい旨のコメントを述べたのにもかかわらず、最新のニュースではグループを脱退したということ。そして、あの朗らかなグループのメンバーが、まるで葬式か犯罪者のような面持ちで会見を開き、涙を流していたこと。
はっきり言って異常だと思います。
有象無象のコメンテーターがさもしたり顔で、山口さんをこれでもかと批判しているのも、なんだか不気味というか。元官僚から元医師、ママタレ、大衆演劇、女装家(一番謎)、などなど。日本のタレントのコメンテーター文化については思うとことがあるので、また書きたいと思いますが、罪を犯し謝罪した人を更にテレビで安全な場所から綺麗な正論で撃つ行為って、本当に知的では無いなと個人的に思います。
上記はアメリカとの報道を比較してからの感想では無く、日本にいた頃から感じていたことで、決してアメリカにかぶれているわけではありません念のため。w
ただ、アメリカに来てこの感覚に確証を得たというか、違和感を感じなかったのは、何か事件が起きた時に、まずその分野の専門家が呼ばれて、アンカーがその人にのみ話を聞くスタイルが定番であること。
もちろん日本でもこのスタイルがあることは承知です。でも圧倒的に違うのは、その横にお笑いタレントやわけのわからないバックグラウンドの人間が並ばない。要するに、みんな自分の分をわきまえた仕事をしているということ。
意見のダイバーシティ化は大事だと思うけれど、報道番組おいて知見に基づかない意見って基本的に不要だと思います。アメリカでは日本のワイドショーのような番組は多くありません。個人的には日本のワイドショーって、オフィスの給湯室と同じで、噂ベースのわけのわからない根拠で誰かの話をして、意見を言ったり聞いたりして、最終的に同調して安心する、という構造になっています。
そこに生産性が無いというか求められていない。アウトプットもインプットもないただの掃き溜め。それが公共の電波に乗って、「これが総意です!」かのように語られる。今でこそソーシャルメディアの発達で、違う情報にたどり着く力を持った人はそこにたどり着けるけれど、そうじゃないソーシャルメディア弱者のほうが未だに多数の世の中、テレビが流す情報は少なからず日本人の考え方や感じ方に影響を与えていると思います。
それってどうなんだろうと。そういう意見で山口が悪い、大人のくせに、良い年齢こいた大人が、のような言葉を呪いのようにかけられたら、それが正しいって思ってしまう。違う意見を持っていることが悪のように非難される。それも徹底的に。
これって、いじめと同じ構造じゃないですか?
(念のため補足しますが、今ここでは山口さんの事件を例にマスメディアについて語っています。犯罪を推奨支援している意見ではないとご理解願います)
テレビ報道の過熱さが無く、淡々と事実だけが更新されるこの現状を見て、この数日間に日本のマスメディア、お茶の間で何があったの?という驚きと共にニュースを眺めています。
これまた個人的な感想ですが、今回の事件は山口さんと女子高校生側(というかその親)どちらにも非があると思います。
その場所でどんなやり取りがされたのか、誰も知ることができません。真偽はいずれにせよ、女子高生の証言が正しいか山口さん自身も確かめようがないんじゃなかったんじゃないでしょうか。起きたらすでに女子高生が帰宅して誰もいなかったほど酔っていたんですから。
そして被害届けを出すほど、怖い思いをした、その女子高生は気の毒だと思います。(自分から夜中に出かけて、怖い思いしたっていうのがそもそも謎だけれど。)でもそういう怖い思いを我が子になるべくさせないように監督するのが未成年の親の責任じゃないのでしょうか。
なんか堅苦しい文章になってしまった。w
そろそろトレジョーに買い物にでも行こうかな。